神藤 啓司 (しんどう けいじ)
1963年 6月 6日 生
東京都 杉並区 出身
宇都宮学園高—東洋大学—富士重工業(株)
-サン・アスリート㈱
「 目標達成は通過点に過ぎない! 」
サン・アスリート㈱ 代表取締役、 経営コンサルタント
中小企業・経営者が会社や事業を成長させる為には、どんなに厳しくても
結果を出し続けなければ存続できません。
結果を出す為には、何に気づくかで方向性は変わってゆきます。本当にやらなければ
ならない事を早く見つけ、適切な行動にスピーディーに入ってゆきましょう!!
利益習慣が身に付ける為に、メダリストの選手のコーチのように、貴社の成長を
ご支援いたします。
高校、大学、社会人と、野球選手としてプレー。26歳で現役を引退。
引退後は、大手自動車メーカーで生産管理、購買などのモノ作りを経て、大阪で自動車販売のトップセールスになる。そしてセールス時代の実績を買われ、グループ企業のセールス、マネージャーの育成講師として全国で2,000人にのぼる研修を行う。その後、子会社の経営コンサルタントとして赤字会社の再建に携わる。また、100億規模のITプロジェクトのリーダーとしてビジネスモデルを纏めるなど・・・。その傍らで、6つの個人事業を立ち上げて来た経験を経て、、19年間勤務した企業を退職し、人生の目的である「アスリートの一生涯を通した幸せを追求する」 コンサルティング企業 サン・アスリート(株)を設立。
・CAFE経営イベント企画
・ブライダル事業
・経営コンサルタント (飲食店)
・健康・医療関連事業
・インターネット販売
・メンタル トレーニング(コーチ)
中学校野球東京都大会出場 (優勝)
全国高校野球甲子園大会出場(ベスト16)
全国高校野球明治神宮大会出場(ベスト4)
東都大学リーグ戦 (優勝2回)
全日本大学野球選手権大会出場(準優勝2回)
社会人野球スポニチ大会出場 (ベスト4)
社会人野球都市対抗大会出場(3年連続)
社会人野球日本選手権大会出場(3年連続)
「アスリートのように仕事する!」
【経営コンサルティング】
志を持ち、本当にやりたいことが決まれば、あとはアスリートのように目標達成に
向けて一直線に努力することが出来れば殆どの人がビジネスで成功するでしょう!
しかし、本当にやりたいことや、本当にやらなければいけないことを目標に設定
され戦略から戦術に落とし込まれているかどうかが問題です。
サン・アスリートのコンサルティングの基本はミッション経営と目標達成です。
貴社の提供する商品・サービスに企業のミッションが100%注入されている
でしょうか?そして適切な目標を定め、達成感を組織が味わうことを知っている
でしょうか? 継続的な成長を求めるなら必ず存在価値が求められます。
いま、新たな価値を創造するタイミングが来ているのならご相談ください。
厳しくそして楽しくこの難局をあなたと考え抜いて乗り切りましょう!
【引退後のアスト支援】
アストが社会に順応し、高い成果を上げ、様々な分野で影響を与える、高い社会貢献をして行く事が、本当の意味でスポーツ界の発展が有ると考えています。
「それがサン・アスリートの目指すスポーツと社会との共存です。」
現在、様々な分野で活躍させているアストの方も沢山いらっしゃいます。
今の環境でこれだけのアウトプットをされている事を考えれば、更に、能力を発揮する事が十分可能であると思っております。
今以上にアストが社会で活躍できる幅は10倍20倍以上有ると考えています。
まだまだ発揮していない、素晴らしい潜在能力が沢山眠っていると確信しております。
「スポーツは、支援する側とプレーする側に、大きなギャップがある事を私達は認識しなければ成りません。」
元気に健康に健全に過ごす事は、全世界の共通の願望であります。その為にスポーツは社会に無くては成らないものです。特に現代社会では、多くの問題と大きなストレスを抱えており、スポーツに携わったり、観戦したりする事は、人々に清々しさと感動や喜びを与え、気持ちまでも和ましてくれます。そしてトップアスリートは、多くの人の憧れであり、オリンピックやプロ、アマチュアのトップレベルの選手は特別な存在として扱われます。
しかし、それは現役時代だけの事です。引退後は一人の人に戻ります。ここからは、今までと違って個人(=本人)の問題です。多くの方は、現役の選手には興味が有っても引退後の元選手には関心が有りません。同じ一社会人として見られるので当然の事です。
・スポーツ界は社会全体で応援し発展させるもの・・・ (アスリート)
・人生は個人のもの、一から出直しです・・・ (元アスリート)
しかし、スポーツ界は、将来の不安や問題点について、決して教えてはくれません。大会やリーグ戦に優勝する為に、プロに成る為に、オリンピックに行くために、記録を伸ばす為に・・・機関や企業やチームなどのスポンサーや、監督やコーチ等の指導者など、全てそれらの結果を出す事が存在目的で有るからです。それらは本質的にはとても素晴らしい事だと思います。
それなので、スポーツ界の問題と個人の問題を切り離して、個人として将来の勉強を自己責任の下で始める事をお薦めしています。その為にサン・アスリートを立ち上げました。スポーツ界の裏側であるアスリートの生涯の人生設計から見た時、余りにも現役時代に極端な偏りが有り過ぎる事、スポーツ界には話せない事を自分で始めてください。個人の問題であり、自分の人生です。自分で守るしかありません。私達は全力を持ってご支援します。
「オリンピックやプロ選手も、人生の一つのステップに過ぎません。」
オリンピックやプロ選手に成る事を、子供の頃から人生の最終目的の様に思い込んでいた事は有りませんか?
殆どのトップアスリートは25歳~35歳位の間に現役を引退します。過去の実績から全てのアスリートが知っている数字です。そのように冷静に考えた時、アスリートの時代は人生から見た時、一つのステップであり通過点に過ぎません。
その様な視点に立った時、こんな質問が出るのでは無いでしょうか?
「アスリートの経験を将来、何に生かすのですか?」
「将来の何をする為に、今、アスリートで居るのですか?」
現役時代の先の見えない時に、その様な事は考えられませんね!先日も元オリンピックのメダリストの方もおっしゃっていました。将来の事を考えると不安に成るので考えないようにしていました。・・・気持ちも良く解りますね・・・
しかし、私も現役時代に何を勉強したら良いか?知っていたら、そんな場所が有ったら、遠回りをしないで済んだと思っています。
現役引退後、スポーツで培った果てしない能力を、今度は社会人として、異なる世界で新たな知識と技術を身に付け、人格を磨き続ける事により社会に欠かせない重要な人財と成ってゆきます。
その時、スポーツの素晴らしさは競技のみならず、人間形成において素晴らしい人財を創出する上で欠かせないステップとして位置づけられるのはずです。
アスリートがその能力を違う分野で発揮する事は並大抵の事ではありません。
我々は、アストと共に、もう一度エベレストに登る覚悟をしています。
そして数年後には、仕事の出来る、高い社会への貢献ができる多くのアストが誕生している事と思います。その視点からスポーツ界を支え発展させてゆく上でアストの存在が欠かせません。アスリートを経験した、その深い問題を知ってるアストが自信を持って次世代の夢を追かける若者や子供達に本気でスポーツ界に飛び込んでも大丈夫と言ってあげる日が来る事を願っています。
「考武両道」 アスリートだけの経験では人生は渡りきれません。人としてバランスのとれた豊かな人格と知性を持ち合わせて成長して行きたいです。
「現役時代を、より長くする為にも、リスクと向き合って欲しいです。」
早く引退して将来に備える事を提案しているのでは全くありません。
むしろ、現役を一年でも長く続ける意味でも使って欲しいと思っています。
引退後の将来の準備は、個人の問題として、シーズンオフや練習後のプライベートの空いている時間に少しづつ勉強を初めてはいかがでしょうか?
普段から学んでいるアストの先輩方が実社会で沢山います。少しは不安も解消するでしょうし、取り組みたい課題も見つかると思います。個人的であれば自由に視野を広げる事が出来るでしょう。その上で、ご自身のアスリートとしてのかけがえの無い一度限りの人生です。また、人によっては最後のチャンスに今は邁進したいという人もいるでしょう。そして納得のいった後は、皆さんと共に本当の人生を歩む勉強を始めましょう!
26歳で野球選手の現役を引退し、同時に人生の目標を見失った。
これからの本当の人生が野球以上の喜びが有るのか?不安だった。
そんな時、鉄工所の社長であり音楽サロンのオーナーとの偶然な出会いをキッカケにスポーツ界・野球界の発展の為には、元アスリートの潜在する高い能力が実社会で10倍以上発揮される環境を作る必要が有ると、29歳11ヶ月目に気づかされ、新たな目的に向けて走り始めた。
その後、社会人野球で入社した自動車メーカーで様々な業務やその他の事業を経験し、どのようにして行けば元アスリートが実社会で高い能力を発揮できるのか?実践しながら研究を繰り返した。
他方、各方面で活躍する元アスリートや多くの成功者の方と触れ合う事により、この事業の必要性を確信した。
将来は、社会人(実業団)・プロを保有する企業、或いは転職先企業に於いて多くの重要ポストに元アスリートが着任し能力を発揮している事を確信しています。いずれは取締役、そして、いつかは社長を創出できる活動にして行きたいと考えています。 多くの方々に多大な影響を与え、高い社会貢献を持ってスポーツ界に恩返しをする事、また家族と歩む幸せな人生を皆さんと共有して行きたいと思います。
また、個人経営者も同様に、市場に愛される真の実力経営者として大きな社会貢献が出来るお手伝いをさせて頂きたいと考えています。個人の場合は楽しさ喜びも大きい反面、厳しさも背中合わせです。商売、家業が発展する為にお役に立てるのでは無いかと思っています。
アスリートの人口は日本の労働人口(6500万人)からすれば点のような人数です。過去に戦った同士が、アスリートの心を持つ同士が今こそ力を合わせ、ノウハウを分かち合い切磋琢磨して行く時ではないでしょか、又、この機会に人生の親友にも多く出会って頂きたいと思います。そして、アスリートで有った事を「自慢話」ではなく「誇り」に思えるように成るためには、引退後の現在の有り方、そして未来のあり方、にかかっていると思います。アスリートで有った頃よりも充実感やワクワク感、達成感のある時間にしたいと思っています。
かけがえの無い宝物を掴んでください。
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~神藤啓司ヒストリー~ (どうしてこの様な人間が生まれたのか)
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【勉強も好きだった!しかし野球は3度のメシより好きだった!】
東京でも下町情緒のある杉並区で生まれ育ち
子供の時、野球に魅せられて、何が無くても
野球だけ出来れば幸せな子供でした。地元で毎日ホームラン
を打っていました。 ボールを握って寝ていて夢の中まで
野球をしていました。
遊び(野球)に忙しくて、殆ど宿題はしませんでしたが
勉強はなぜか嫌いではありませんでした。
勉強時間が少ない割には良くできていた方だと思いますが
野球ほど好きではないので それ以上はやる理由が有りませんでした。
小学校時代からピッチャーで5番を打ち、名門中学へ受験をしま
したが、見事に落ち、初めて挫折感を味わいました!悔しい!
敗北を喫したので、勝利には縁遠いユニフォームも揃っていない
近くの区立中学に行くことになりました。
練習も週に1回しかなく、区大会で1・2回戦で敗退するチームでした。
軟式野球の弱いチームでは高校野球など夢のまた夢です。
当時、3つのクラブに入って良い規則でしたので、野球部の他は
陸上部とフォークソング部入り、プライベートではサッカー部のワルども
と登山隊を結成し、憂さ晴らしに学校を休んで山登りに行っていました。
しかし、大好きな野球をこのまま終わらす訳にはいかないと仲間と
奮起し登山隊の活動も2年の夏休みで終了し、秋から早朝練習を始め
俺たちの様なチームでも杉並区で優勝出来ないものか目的を持って練習を
はじめました。(お陰で日本の3000M級の山は殆ど登り終わりました)
その効果もあり、なんと!秋に杉並区で優勝してしまったのです。
有頂天に成って居たのもつかの間で、そのあと東京都大会に出場しレベル
の低さにコテンパンに叩きのめされたのです。
中学時代最後の夏の大会で、またしても杉並区で優勝しました3連覇です。
そして春もコテンパンにやられた東京都大会です。最後の夏はそう簡単に
負けるわけには行きません。1・2回戦を突破しベスト16に勝ち残り準々決勝
準決勝・・・決勝、そしてなんと東京都で優勝してしまったのです!
東京の中学校の数は半端ではありません。甲子園の倍率どころでは
ありません。入学当時、ユニフォームも揃っていない週に1度しか練習しない
公立中学が名門私立中学を抑えて1000校の頂点に立ってしまったのです。
(区予選から11連勝)
このひと夏の
一瞬の出来事が私の人生の方向を大きく変えることになりました。
東京都大会もベスト16ぐらいからの戦いには、高校から沢山のスカウトが見に
来ていたようです。優勝した結果、東京や関東の名門高校 数校から声が掛る
ことになり、一日にして高校野球=甲子園への道が開かれたのです。
そして、最終的には栃木県の宇都宮学園高校へ野球留学することになりました。
3月の卒業式が終わったその足で春のキャンプに参加し、若干15歳で親元を
離れそれ以来親と生活すること無く現在に至っています。
【死にもの狂いの高校時代】
我々、星飛馬(巨人の星)世代は、努力と根性、忍耐と限界、暴力と矛盾の
最盛期の終盤で、まあ…思い出したくないような厳しく過酷な毎日を送っていました
特に1年生の頃は、野球と言うより生きて行くのが精一杯でした。
暴力なんて当たり前、軍隊のような生活でした。当時はどこの高校も似たような
ものです。2年になる頃には100人以上いた同級生の部員も15人ぐらいになり
しぶとい奴らが生き残った、シンプルなメンバー構成になっていました。
試合にも出してもらえるようになってきました。2年の秋からベンチに入り、私ともう一人
のピッチーとファーストのポジションのライバル同士で切磋琢磨するチームとなりました。
3年春の選抜甲子園が後ひとつ勝てばという晩秋の明治神宮大会(全国大会)の
準決勝で東京代表の早稲田実業に私が打たれて敗北したのです。 あと一つ勝てば
甲子園・・・
本当に、チームの皆に申し訳ない。学校や応援する父兄に何とお詫びしたらいいのか
そんな悔しい思いをしました。 その翌日から死ぬ気で練習し、正月休みも返上して
精神を1から鍛え直し、心を入れ替えて出なおしました。
3年の春にはエースになりました。夏にはエースを奪われ2枚看板で戦っていました。
そして最後の夏に念願の甲子園へ出場することができました。
嬉しかったと同時に、ホッとしました。
初めて大阪の地を踏み、
蔦のからまる甲子園球場を初めて生で見た時、やっと ここまでたどり着いた・・・
長かった・・・そんな思いがこみ上げてきました。憧れの甲子園で2回校歌を歌いました!
そしてまた・・・大学野球の道が開けることになります。
実は、私を宇都宮学園に連れて行ってくれた方は、元朝日新聞の記者の久保田さん
と言う方で、明治生まれのお爺さんでした。その方は、今の様にスポンサーの少ない時
代は、新聞社がスポーツ(特に野球)の発展にとても重要な役割を果たしておりました。
その方は、あの長嶋茂雄さんを発掘した方なのです。長嶋さんが佐倉一校の3年の春の
関東大会で大宮球場で弾丸ライナーのホームランを放ったのです。
その模様を写真入りの記事で紹介しました。関東に長嶋あり・・・と書いた方です。
そしてその方は、甲子園、春の選抜で王投手(王貞治さん)を擁して優勝を果たした
早稲田実業高の総監督として、当時コントロールの悪かった王投手にアメリカから
ノーワインドアップ投法を輸入し教え問題を解決した方でした。 宇都宮学園は
早稲田実業の姉妹校だったのです。久保田氏が宇学から東京から選手を取りたい事を
学校側から依頼されていたようです。氏は非常に野球界に影響力を与えた方でした
ルールブックを作った人です。プロのオールスターゲームも作った方です。
その久保田さんが晩年、最後に世話をしてくれた選手が神藤啓司だったのです。
私たちが甲子園に出場を果たした2年後に亡くなりました。大学で神宮球場で投げる
姿をみてもらう前にでした。 一生野球に情熱を傾けた凄い人でした。 中学生の私に、
いつか王・長嶋と一緒の場で活躍する選手になれ!と励ましてくれた方です!
その時 王さんが宇学の私あてにサインを書いてくれました。今でも大切にしています!
(そのような方に道を開いて頂き、本当に感謝しております。)
【またしても…日本一 厳しい東洋大学へ】
甲子園が終わると直ぐに甲子園組のセレクションが各大学で行われます。
特待生、推薦など色々な大学側に制度があり、甲子園大会までに出場していない
スカウトされた高校球児のセレクションは終了しており、大学側も最終セレクト
段階に入る時です。
私は幸運な事に青山学院大学から高い評価を頂き、それから、中央大の
セレクションに参加しました。ほぼ青学大への進学を決めておりましたが、 誰の
いたづらでしょうか? スポーツ推薦枠の不透明な大学として新聞社が青学大の制度
を暴露しその年の推薦枠を全廃することになり、青学大への道のりが消えてしまった
のです。何ていう事が起きるのか???青学大100年の歴史で初めて起きる1年に
大当たりしてしまったのです!
私は、余りにも高校1年時代の厳しさが、本当の野球選手を育てる環境ではないと
感じていたので、大学は厳しいよりも、自分で考える野球をやって見たいと思い、
当時の大学としては、青山学院大、法政大、中央大などが自分に適している大学と
感じておりました。
逆に明治大、駒沢大、東洋大、亜細亜大など、戦国野球を展開する厳しい
修行をしているような精神野球だけは避けたいと願っておりました。
この推薦制度の対する問題処理で、青学大の監督さんが謝罪に実家に
来てくれました。今年中に不透明な部分を全廃し、明確な推薦制度を確立するので
もし一浪してもらえるなら、責任を持って来年は取ります。と言って頂きました。
当時の青学大の監督は元プロ野球選手で投手を育てるのが上手な素晴らしい方
でした。 しかし、私はプロになる事が目的でしたので、そうでなくても大学は4年も
有ります。その1年が命取りになってはならないと思い。自ら浪人のお話をお断り
したのです。
そうしたら、なんと青学の監督さんが、君にとって、今一番良い大学は、東洋大学
である、有る意味日本一の大学だと言われ、東洋大学の監督に私が推薦すると言って
くれたのです。
しかし、私にとって東洋大学は行きたくない大学の3本の指に入っていた大学なので
即答することが出来ませんでした。しかし、浪人をしたくない以上、つべこべ言っている
場合ではありません。 行くだけ言ってみようと思い東洋大学の練習に参加すること
になったのです。
東洋大は予想通り、ピリピリとした軍隊の様な厳しい集団が持つ特有の空気が流れ
ていました。土のグランドはゴミ一つ、石一つ落ちていません。土なのに鏡のように
綺麗に整備されたピカピカのグランドが有りました。
トイレに入っても、古いですが汚れひとつ付いていません。
通させた応接室(監督室)にもゴミどころか、何一つ曲がっておいてあるものは
有りませんでした。全てがビシッーとしていたのです。
コーチ、マネージャー、選手 全ての部員が異常な緊張感を持っていたのです。
そして応接室に暫くいると、その緊張感を生み出している鬼軍曹の様な
高橋監督さんと対面することになりました。それから少々質問をされました。
そして高橋監督は東洋大学は、日本一を目指してる。
その為に日々練習をしている。 明確に言い切りました。
少しすると、 最後に監督は、鋭い眼光で私に言いました。
「ところで、君はウチに来る気は有るのか?」
私は即答しました。「はい!よろしくお願いします!」大きな声で
頭を下げてお願いしました。
監督さんに初めて会ってこの間約5分です。本気で日本一を目指してる
監督の目が自信にみなぎって居ました。ならばこの監督に4年間に徹底的に鍛えて
もらい、六大学を倒して大学日本一になろうと決断しました!
そして直ぐに受験の準備に入り受験場号が配布されてきました。すると受験番号
が「777」だったのです。学力うんぬんより直感的に受かるなと思いました。
こうして一番行きたくない東洋大学の話に限っては、何の障害もなく全てがスムーズ
に事が運んで行きました。こうして流れるように入学するこになりました。
入学すると案の定、上下関係が異常に厳しく、また高校1年からやり直しのような
日々が始まりました。ましては大学は高校より先輩が1学年層厚いのです。この厚み
は、1年生の取っては天皇陛下と奴隷ほどちがう厚みです。練習は厳しい、先輩には
殴られ、説教は絶えない軍隊のような日々に野球よりも生きて行くのに精一杯でした。
夜も寝ると言うよりは疲れの限界を超えて気絶してるような就寝スタイルでした。
私はこの時一番厳しいところへ行く運命なんだと自覚をし、そうであるなら東洋大学で
一番粘り強い人間になってやろうと何が起きても歯を食いしばって負けないことを
誓いました。





